70年代のオフィス

筆者がある製鉄会社に就職したのは1970年だった。

勤務時間

朝8時から夕方4時までで、昼休みは1時間であった。ただし、土曜日は出勤であった。土曜を休日にするのと引き換えに昼休みが45分になったときには、将棋をゆっくり指す時間がなくなるとぼやく人が多かった。入社当時は30時間程度まで残業が認められていたが、不景気になってくると一律3時間程度に制限され、元に戻らなくなった。構造不況業種だったのだろうか。
建物

筆者の職場は鉄骨造りであったが、木造の建物も世の中にはまだ多く残っていた。東京都にある某電機会社に打ち合わせに行くと来客との会議専用の建物が木造であった。受付にいるえび茶色のスカートをはいた女性(これで会社名がわかるかな)が、「ぎっぎっ」という階段を先に上って会議室に案内してくれたのを思い出す。
エアコン

事務所にエアコンはなく冬は蒸気暖房だった。筆者の職場は設計であったので、汗が図面については具合が悪いという理由でエアコンが設置されていた(恵まれた職場であった)。エアコンを使ってよいという期間は規則で決まっていたが、試運転が早くから行われた。
事務机

事務机は灰色のスチール製だった。たまたま筆者の勤務したのは60年代後半に操業を開始した製鉄所であったから新しい机があったのであって、古い事務所では木製の机が使われていた。
電話

オフィスの電話はダイヤル式の黒電話であった。外部から電話がかかると電話交換嬢が出て、誰を呼ぶのか聞いてから接続していた。ダイヤルインなどはまだなかったのである。電話交換業務は緊張を必要とする仕事で1時間ごとに交代していたから電話センターには立派な休憩室があった。こういうシステムはどこの会社でもそうであったから、こちらからかけるときは代表番号にかけて、やはり相手の交換嬢が出た。神戸にある、ある電機会社にかけて相手の名前を告げると、少し年齢を感じさせる声で「はいはい」などといわれて、つないでいただいたことが懐かしい。

市外に直接ダイヤル式でかけることは管理職の席の電話以外は制限されていて、いったん「9」をまわして自社の交換嬢を呼び出してつないでもらうことになっていた。これが面倒なので、直接市外電話をかける秘密の方法なるものがあって、「0」をダイヤルしたあとダイヤルが元に戻る直前にフックをすばやく操作すると市外にかけられるのであった。

不景気になると市外電話をかけるには課長の許可が必要であった。そのくらい市外電話は高かった、ということでもある。
テレックス

電子メールはもちろん、ファックスもまだ登場しておらず、一番安くて早い通信法はテレックスであった。テレックス用紙に書いて出すと専門の女性が打ってくれた。使える文字はカタカナと英数字のみであったと記憶する。数字は間違いがあってはいけないので、本文の最後にもう一度書いておき、重ねて打ってもらうことにしていた。
計算尺

乗除算や三角関数などの計算には計算尺が使われていた。電気技術者用とか化学技術者用などもあったと記憶する。計算尺やそろばんはなぜか個人の持ち物を会社に持ち込んで使っていた。
計算機

事務所には何種類かの計算機があった。まず手回し式のタイガー計算機。割り算の時はチンというまで引き算をしてから一回転戻し、桁送りをしてまた繰り返す。そのほかにはモンロー式という電動式計算機もあった。計算の経過が印字される。さらに新型のものは電子計算機で、表示部にはニキシー管というネオン管を使っていた。この表示管は数字によって奥行きが違うところに表示されるのであった。この計算機は卓上型で事務机の半分くらいの大きさで、まさに「電卓」であった。これらは100人くらいの事務所に各一台ずつであった。手のひらに載る今の「電卓」が出たのは1972年のカシオミニ(16桁を8桁ずつ切り替えて表示)が最初だった。
電子計算機

従業員数千人の会社であったが、技術計算用のIBM 3170(だったと思う)という計算機が1台設置された。FORTRANでプログラムをして、ユーザが勝手に走らせるようになっていた。入力はカード式であり、出力はラインプリンタであった。

なお、当時の計算機は漢字やひらかなを扱えず、給与明細をはじめすべてがカタカナと英数字のみであった。もちろんパソコンなどは想像もできなかった。
コピー機

事務所では湿式のコピー機が使われていた。感光紙と原稿をきちんと重ねて下の方から水平にいれると感光されて上部から手前に向けて出てくる。出てくる2枚重ねの紙のうち感光紙のみをくるっと曲げて現像液のタンクに入れねばならないので、コピーというものは一人がつきっきりでする仕事であった。後になると2枚重ねの紙を自動的に分けて感光紙のみを現像液の方に送る機械もできたが、調子が悪いと原稿まで現像液をくぐらせてしまい、泣くに泣けない思いをしたものだ。そういう機械を使っていたので事務用紙は光の通りやすい薄紙であった。それでも1枚当たり数秒はかかっていたと思う。

筆者の仕事は設計であったので図面を焼くための大きな乾式コピー機が置かれ専任の人たちが働いていた。乾式コピーはアンモニアの匂いがした。湿式のほうは薄い赤紫色であったが、乾式は紺色の文字となるので「青焼き」と呼んでいた。現在との大きな違いのひとつは、コピーのコピーが困難であったことである。
筆記具

おもな筆記具は鉛筆であった。シャープペンシルはまだ珍しかった。パソコンが普及するまでには、鋏と糊を使って切り貼りで資料を作成する時代が来ることになるが、この時代にはまだ複写機がなかったのでそれはできず、資料は一枚ずつ、もっぱら鉛筆と消しゴムを使って作成するものであった。
ガリ版

上記湿式コピーは数年すると薄くなってしまうからか、重要な書類は孔版印刷(いわゆるガリ版)で作成されていた。見積書や仕様書などもガリ版で出てきた。ガリ版はあとで部数を追加することはできず、しっかりと部数を管理する必要があった。なお、当時すでにゼロックスでは現在と同じような複写ができる機械を発売(レンタル)していたが、1枚あたりのコストが高かったためあまり使われていなかったものと思われる。
給与の銀行振込

給与は現金支給であった。銀行のキャッシュディスペンサーが設置され始めたばかりであったし、クレジットカードを持っている社員などはほとんどいなかったからキャッシュレス時代とはお世辞にもいえなかったが、キャッシュレス時代だからと称して、まもなく給与の銀行振込が始まった。これは任意の体裁を取りながら実は強制であった。筆者は便利さが感じられないといって従来どおり現金で受け取りたいと申し出たが、課長から個別に説得された。制度が始まる前には、寮の部屋のゴミ箱に未開封の給料袋を捨てていたのを見つけたこともあったから、給与振込みは私にとっては良い制度であったともいえる。
昼食

製鉄所では工場給食が行われていた。米飯はアルミの弁当箱に一人分ずつ米と水を入れて蒸気を使って炊かれたもので、水加減が悪いと固いご飯やべちゃべちゃのご飯に当たってしまうこともあった。おかずはプラスチックの弁当箱に入っていた。うどんやラーメン、カレーもあったと思う。遅くいくとカレーしかないことがよくあった。夏になると特別献立(特献)と称する御馳走の日があった。
たばこ

昨今はタバコに対する風当たりがきついが、当時はタバコの煙は当然に耐えるべきものであった。会議室などは煙でもうもうとしていた。
独身寮

独身寮は一部屋2人の6畳の和室で、新入社員は年上の先輩と同じ部屋に入れられた。スチーム式の暖房はあったが冷房はなかった(もっとも涼しい地方ではあったが)。電話は各部屋にはなく、外部からかかってくると放送で呼び出され、廊下にある電話機をとると勤務員がつないでくれた。夜はひっきりなしに電話の呼び出し放送があったものだ。電話の取次ぎは10時までだった。
職場旅行

職場ではお金を積み立てて毎年バス旅行にいっていた。行き先は温泉で、いわゆる一泊宴会方式であった。バスが発車すると、すぐにビールが回ってきて宴会が始まるのであった。翌日も朝食の時からビールを飲んだものである。
カラオケ

当時はまだカラオケなどというものはなかった。したがって、バスの中で歌をうたうためには歌集が必要であった。幹事はこういう小道具の準備もしなければならなかった。
お茶とグリーン車

管理職には女子社員が毎朝お茶をいれていた。また管理職は新幹線のグリーン車に乗れることになっていた。その後、年月が経つにつれてこの二つのための資格条件は厳しくなっていって、蜃気楼のようにこちらが近付くと、それに応じてどんどん遠のいていくのであった。

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