子供の目で見た50年代の農村

今は合併して篠山市となったある村の小学校に私が入学したのは1954年であった。この村は米作と養蚕を中心とする純農村で、自宅から2キロメートル以内に国鉄の駅が二つあった。商店街のある篠山町までは4キロメートルくらいあった。

原爆実験と雨 new

原子爆弾の実験がどこかで行われると、放射能が雨に含まれるということが報道されストロンチウム90という放射能は半減期が極端に長いといわれた。雨にあたると髪の毛が抜けるといって子供たちは頭をぬらさないようにして駆け出した。今にして思えば、広島長崎や福竜丸事件での被爆者にこうした症状が現れてそれを知った大人たちが子供に教えたものであろうか。
物価

回転焼き5円 はがき5円 キャラメル16個入り20円 アイスキャンディー5円。遠足のお菓子は50円以下に制限されていた。
子供の遊び

けんけん、びーだま、べったん、かんけり、かくれんぼ、おにごと、こままわし、たこあげ、やきゅう、ちゃんばら、虫とり、セミとり、魚とり、川遊び、ほろだまでっぽう、たけとんぼ、将棋、ぴんぽん、ゴムとび、まりつき、あやとり、おじゃみ、おりがみ、・・・

帽子のつばを後ろや横に向けて「戦艦」や「くちく(駆逐艦)」「潜水艦(だったと思うのだが)」の3種類のうちのひとつになり、じゃんけんのようにそれぞれが苦手の相手をもって、二手に分かれておにごっこをする遊びもあった。遊びの始まりは「戦闘開始」という掛け声で始まる。マッカーサーの禁止令(あったかどうか知らないが)も田舎の村までは届かなかったということだろうか。
電線くず

電力会社の人が来て電柱に登って工事をすると、子供たちはその人が帰るのを待って銅線の切れ端を拾いにいった。集めておいて廃品回収の人に売ると30円から100円くらいの収入になった。
ラジオ

真空管式のラジオが一台あった。「三つの歌」とそのあとの「アチャコさん」のでるラジオドラマ(?)を家族で楽しんでいた。私は「高丸菊丸」「まぼろし探偵(赤い帽子に黒マスク、黄色いマフラーなびかせて・・・・)」などの続き番組を聞いていた。ラジオの中には真空管の赤い光が見えて神秘的であり、これが後年ラジオ少年を経て電気工学科に進むきっかけになったと思われる。

2台のラジオを並べてそれぞれをNHKの第一放送と第二放送にあわせると、ステレオで聞くことのできる番組もあった。
テレビ

小学4年のころにテレビが村に入ってきた。学校では日本歴史の番組を見るためにテレビの置かれた理科室と家庭科室に集合して部屋を真っ暗にして画面に見入ったものだ。家に帰ってからはテレビのある家に見せてもらいに行った。プロレスや大相撲、月光仮面(?)などのドラマを、その家の人が食事をしているそばで見せてもらった。相撲では勝負があったあと「スローモーションでご覧ください」といって勝負の瞬間をゆっくりと再生していた。画面はもちろん白黒で、コーナーが丸かったので隅に出る時刻や野球のボールカウントなどは一部が欠けることが多かった。
蓄音機

小学校に手回し式の蓄音機があった。電気は一切使われておらず、SPレコードという回転の速いレコードに、長さ2cm程度の釘のような針をあてて直接スピーカーの板を振動させ音楽を再生した。ぜんまいに蓄積したエネルギーがなくなって回転が遅くなると、先生が箱の横についたクランクを回して回転を元に戻す。電気式の蓄音機は電蓄といった。
自転車

親戚から子供用の自転車を父が借りてきてくれた。サドルが高かったので、サドルをはずして代わりに麻袋を括り付けて練習した。乗れるようになるとこの自転車は返して、大人用の自転車に横から足を入れて乗るいわゆる三角乗りをした。
自動車

村の道路を自動車が走るなどということはほとんどなかった。たまに自動車がとおるとそれは宣伝カーであったので、その後を追いかけるとビラを撒いた。

オート三輪というものもあった。子供の三輪車を大きくしてエンジンをつけたようなもので、ハンドルは丸い輪ではなくバイクのようなハンドルであった。「バタコ」と呼んでいた。
中学校

中学校の校歌は戦後まもなく作られたもので、当時の復興への意気込みや希望がこめられたものであった。中学校の統合でこの校歌も歌われなくなったのは残念である。
天地明るく照り光り 緑に映える白髪嶽
はるか理想の空を指す おお、おお、清新 いざいざ仰げ
歓喜あふれる学び舎に 清き希望は 希望はよみがえる よみがえる

味間の郷の真清水は 青く静かにこんこんと
永久の命を流れ行く おお、おお、清浄 いざいざ汲めよ
伝統誇る学び舎に 若きいのちは いのちはもえあがる もえあがる

平和にあけて郷ほがら 多紀の文化にさきがけて
燦と自由の花開く おお、おお、純情 いざいざほめよ
誓い新たな学び舎に 若き日本は 日本はよみがえる よみがえる

                        (作詞:大安実治)

バナナ

バナナやパイナップルは高級な果物であった。病気のお見舞いなど特別な場合にしかお目にかからなかった。
ごはん

9人家族だったので、ご飯は毎朝大きな釜で3升くらい炊いていた。炊き上がると「おひつ」に移して食卓に出すのである。冬はおひつを「ふご」という稲わら製の保温器に入れておくと、昼頃までは少し温かかった。夏にはおひつを使わず竹ざるに入れた。
箱膳

食卓はなく、各人が箱膳を使っていた。40センチメートル四角で高さ20センチくらいの蓋付きの箱の中に食器を入れておいて、食事の時は食器を箱の蓋の上において食べるのである(食卓はなく、箱膳は床の上に置く)。食事の後は各自が食器をきれいにしてその箱にしまう。つまり、食器を毎回流しで洗うということはなかった。
調味料

ケチャップや胡椒は家にはなかった(したがって、東インド会社が東洋から持ち帰った「コショウ」がどんなものなのかは想像もつかなかった)。ウスターソースや「味の素」、マヨネーズは小学生のころから食卓に乗るようになった。
しょうゆ作り

しょうゆも家庭で作っていた。発酵させたもろみをしっかりした専用の布袋に入れて地区共有のしょうゆ絞り機の中に積み重ねる。両側にある鉄製のねじを締め上げてしょうゆを絞るのである。自家製のしょうゆはうすくちで、はじめて店で買ったしょうゆを使った時には味が濃すぎてなじめなかった。味噌ももちろん作っていた。味噌を作った時の麹で甘酒も作ったが、この匂いは好きになれなかった。

食塩は稲わら製の「かます」(むしろを二つ折りにして合わせ目を閉じたもの)に30キロくらい入ったものを買って、「みそべや」に置いていた。にがりが十分除去されていなかったのか、かますの表面はいつも湿っていた。
献立

印象に残っているのは次のようなもの。

食べた記憶がないのは:
大根おろし

あのころは大根おろしが辛くて子供には食べられなかった。翌日になって辛さが抜けてからご飯にかけたりして食べた。最近はさっぱり辛くないが、大根が変わったのか、自分の味覚が変わってしまったのか、どちらかなあ。
行商人

江戸の町には次々にいろいろな商人が商品を持ってやってきたので長屋の住人は買い物に行く必要はなかったと書いた本を読んだことがある。田舎の生活もそれに似たところがあった。豆腐屋、鰹節屋、とろろ昆布、富山の薬売り、廃品回収、鋳掛け屋(なべの修理)など。竹かごを持って売りにくる人もいた。よく来ていたのは「おやまのおばちゃん」という人で、この人は魚(干物や塩をした魚)、鯨肉、佃煮などを持ってきた。「くじら百め(匁)」などといって注文すると、おばちゃんは鯨肉を四角いかたまりに切って、さおばかりの皿に乗せて重さを計った。
富山の薬売り

風邪を引いたりすると、富山の薬売りが置いていった「セキドメ」や「赤玉風邪薬」などを飲んだものである。薬売りは一年に一度くらい各家庭を回ってきて使われた薬を補充して代金を回収していた。子供がいると紙風船をお土産にくれたものであるが、もっといいものをくれないものかといつも思っていた。
やみや

米は農協へ出すことになっていたが、ときどき「やみや」が買いにきた。子供にもなんとなく良くないことをしているのだという印象があった。ごく小さい時には唐草模様の風呂敷きを肩に背負うおばさんが来ていたが、後には自動車で来るおじさんになった。おばさんは「買いだし」スタイルだが素人ではなくプロであったと思う。
電気製品

電灯以外の電気製品はラジオとアイロン、学習用電気スタンドくらいしかなかった。電灯や電気スタンドも蛍光灯ではなく白熱灯が普通であった。電気スタンドは、さわるとやけどをしそうな熱さであった。冷蔵庫は乳牛から絞った牛乳を冷やしておくために50年代の終わりに購入したが、三種の神器といわれた洗濯機やテレビは60年代に入ってからであった。家の天井には碍子が取り付けられ、むき出しの配線が見えていた。コンセントはなく、天井から下がっている電灯に松下電器のヒット商品である二股ソケットをつけてアイロンなどを使っていた。電灯は点滅するための紐がついていて、寝るときには小さな電球に切り替えることができるようになっていた。後に蛍光灯が出たときには、点灯するまでの時間が長いので頭の回転の悪い人のことを蛍光灯とよんだ。
わらぶき屋根

親の実家はわらぶき屋根であった。茅(ススキ)を刈って乾燥させておいてそれを使って屋根を葺くのだから正確には茅葺というべきか。屋根を葺き替える時には近所総出で手伝って仕上げるのである。冬暖かく、夏は涼しいという利点もあった。後にはかやぶき屋根をトタンで覆ってしまう方法も流行した。
台所

台所は土間(まさに土のままであった)になっていて、真ん中にかまどがあった。かまどは耐火レンガを積んで作ったもので直径50cmくらいのお釜を2つ載せることができた。このかまどを使って毎朝ご飯をたいていた。かまどでご飯を炊くとおこげができるのだが、お茶と塩を入れてこのおこげを落としたものは香ばしくておいしかった。食事は台所のそばの板の間に座って食べた。
おがくず

私の家では山林を持たなかったので柴が十分手に入らず、製材所で出るおがくずを燃料に使っていた。直径高さとも50センチメートルくらいの円筒形のかまど(「ひっこくど」と呼んだ)の中に直径10センチくらいの心棒を入れておがくずでその周囲を固め、心棒を抜いたあと下部に空気の入り口を作る。この中で柴を燃やすと、おがくずに火が移り長い間もえつづけた。欠点は、おがくずが崩れた時に猛烈な煙とほこりが出ることであった。籾殻を燃やす「ぬかくど」というものもあった。「火吹き竹」というものがあって、竹の節に小さな穴をあけ反対側から息を吹き込むようになっていて、火をおこすときに用いられた。
牛小屋

農家は田を鋤くために去勢牛を飼っていた。牛小屋は「きや」(納屋)の入り口にあり、牛小屋なのになぜか「うまや」といった。稲わらや食べ物くずなどを大きな鍋で煮て、たらいのような桶に入れて牛に与えていた。こういう調理されたえさを食べていたからおいしい神戸牛ができたのである。初夏には小さなジャガイモがえさの中に入っていて、おなかのすいた私はそのジャガイモをよく失敬したものである。牛にある程度肉がつくと博労さんが来て買いとって代わりに若い牛を置いていった。
乳牛

乳牛を飼うのは私が小学4年生のころに始まった。農作業用の牛は歩き回れる程度に広い空間に飼われていたが、乳牛は狭いところにつながれていた。運動不足を解消するために私は毎日この乳牛を散歩に連れて行くことになっていた。田舎のあぜ道を行くのだが、たまたま近くを自動車が通るとこの牛は驚いて走り出し、私の持つ縄を振り切って自分の小屋に逃げ帰ってしまうのであった。絞った牛乳を冷やすためにポンプで地下水を汲むことは私の役目であった。貧しい家であったが、牛乳を保存するために冷蔵庫を持っていた。子牛が生まれるとしばらくは洗面器で牛乳を飲ませる。指を子牛の口に含ませてからその手を牛乳の入った洗面器の中に持っていくと、子牛は指に舌を巻きつけてじょうずに牛乳を飲む。子牛がオスの場合には10日ほどで買われて行った。
祈祷師

当時はまだ科学の発達しない時代であったのであろう、人生の大きな岐路に立つと決断をするのに占い師に頼ることが多かった。井戸を掘る場所、結婚相手を決めるとき、それに病気になったときなども「おがんでもらう」ことが多かった。結婚式の日などは今も「吉日」を選んで行うというのはその残渣であろう。
回虫駆除

当時は人糞は大切な肥料であった。そのまま野菜に肥料としてかけられていたので回虫が多かった。学校でも検便が行われ、児童はマッチ箱に豆粒大の大便を入れて学校に持参した。回虫の駆除は「まくり」とよばれる海草を煎じたものを黄色いアルマイトのコップにいっぱいずつ飲んで行なった。「まくり」は特有のにおいがして、なかなかなじめなかった。
便所

便所は納屋にくっついていて屋外から入るようになっていた。木の床に30センチくらいの幅の隙間が開いていた。下には大小便の山と海が広がり、蛆虫がうごめいていた。お尻を拭くのは古い新聞紙であり、しゃがんでいる間にいくつかの記事を読むことができた。夜は暗いので便所に行くのが怖かった。夜になって大便がしたくなると親が懐中電灯を持ってついていてくれた。なお、小便専用の便所が風呂のそばにあった。
くら

いたずらをすると「くらにいれられる」のがいちばんきつい罰であった。土蔵に入れられて扉を閉められそうになるといつも泣いて謝ったものである。くらのなかには米などが貯蔵されており、泥棒を避けるために毎晩入り口に大きな下駄を置いていた。主人が中で寝ていると泥棒に思わせるためである。
やいと

お灸はいちばん一般的な健康法であった。肩甲骨のあたりの背骨の上と腎臓の後ろあたりにお灸を据えた。子供にとって決して好ましいことではなかったが辛抱していたと思う。
自給自足

当時の日用品には工業製品はほとんどなく、手工業品が使われていた。道具は木や竹でできたものが多く、衣類も自家栽培の木綿でできたものが多かった。台所にももちろんプラスチック製品はなく桶や陶器が使われていた。農作業に必要な縄やコモは自分の家で作っていたし、米俵も編んでいた。下駄は自分たちで修理したし、わらぞうりはわらで作っていた。
散髪

子供は「坊ちゃん刈り」もあったが、普通は丸刈りであったので自宅で散髪をした。手動式の(電動でない)バリカンがあり、祖父が散髪をしてくれた。バリカンというのは髪を切ってから動かさないと髪をはさんだ状態で動かすことになり髪が引っ張られて痛い。プロでない悲しさ、散髪というのは痛いものとあきらめていた。老人も同様に丸刈りであった。女の子は「おかっぱ」や「おさげ」が多かったが60年代に入るころには「カット」というすそを斜めに刈り上げた形が流行りだした。老婦人は髪を後ろに撫で付けて頭の後ろで小さな団子にしていた。成年の婦人はパーマで髪を縮らせていた。
くつ

学校に行くのはズック靴だった。雨が降るとゴムの短靴をはいた。薄っぺらな黒いゴムでできていた。大人が「よそいき」のときにはいている革靴にはかかとが減らないように鋲が打ってあった。
寝間着

寝巻きは和式であった。浴衣のようなものであるが、冬にはネルで作った厚手のものを着た。子供用は帯だけでは前がはだけるので、紐が縫い付けられていた。
もんぺ

農村婦人は農作業の時にはもんぺをはいて仕事をしていた。学校の参観日などにも和服でくることが多く、自転車に乗るときは和服の上からもんぺをはいていたと記憶する。
井戸

家の敷地の西北の隅の一段低くなったところに井戸があった。井戸の水は鉄分のために赤茶色をしていた。料理に使う水は砂を入れた濾過器(高さ1.5メートルくらいで約50センチ四角のコンクリート製)で井戸水をこして、流しのそばの水槽にためておいて使った。砂はときどき川へとりに行った。
ふろ

風呂の水を汲むのは重労働であった。私の家では叔母たちが水くみをしていた。子供は最初に風呂に入るのだが、湯が熱い場合は親に頼んで水でうめてもらわなくてはならない。あまり気前よくうめてはくれないので熱い湯に辛抱して入った。風呂桶は底が鉄板になっていて、その下から「まめがら(大豆の木)」や麦わらなどを燃やして沸かした。風呂を沸かすのは子供の仕事であった。風呂の底は熱いので木の板を沈めてその上に乗るようにして入るのである。
汽車

われわれが乗る客車は三等車であった。汽車の座席の背もたれの部分は垂直でよく磨かれた木製であり、その両側に背中あわせに座席があった。天井には薄暗い電灯が乳白色のガラスのボールの中でぼんやりとついていた。スチームの暖房はあったが、もちろん冷房はなかった。扇風機もなかったと記憶する。列車の便所(トイレなどという言葉はなかった)は汚物を線路上に垂れ流す方式であったので、駅で止まっているときに用を足してはいけないという国鉄の身勝手な(利用者も駅が臭っては困るが)規則があった。窓枠は木製であった。トンネルに入る時には汽笛が鳴ったら窓を閉めねばならなかった。もし閉めないとすすで真っ黒になるのである。線路はもちろん単線で駅では行き違いのために何分も停車した。駅員は大勢いたようで駅を出発するときにはホームに何人もの駅員が間隔をあけて立ち、「つぎはどこそこー、つぎはどこそこー」と何度も繰り返してどなっていた。国鉄はその地方の有力な就職先であった。
駅弁

主要な駅では駅弁を売っていた。売り子は大きな箱を肩から紐でつり腰の前で支えて列車の窓まで売りにくるのである。駅弁を食べたあとのクズは座席の下においておけばよいとされていた。
鉄道施設

切符は硬い厚紙でできていた。10センチ角くらいの木材でできた改札口では駅員がペンチのようなはさみをカチャカチャいわせながら待っていてその切符にきりこみを入れる(九州では今も健在だ)。駅のプラットホームは低く、50センチくらいしかなかったのではないだろうか。電化された今も向かい側のホームを見ると何回にも分けてかさ上げされてきた様子をまるで地層の観察のようにみることができる。信号は腕木式で駅からワイヤロープで操作するようになっていた。ポイントの切り替えは駅に2メートルくらいのよく磨かれたレバーが何本もあり駅員が操作しては指差し確認をしていた。線路脇には通信用の電柱が立ち、何十本もの電線が張られていた。踏切には古くなった枕木を使った柱があって白い板に黒ペンキで「ふみきりちうい」と書かれていた。
信号機

小学校の宿題に、良い行いに○をしなさいという問題があり「信号機が赤だったが渡った」というのがあった。登校途中にある踏み切りのそばに腕木式の信号機があり、それが降りてから列車が来るまでの時間は長いことを知っていたので○にした(実はこの信号機は列車が近づくことを知らせるものではなく、列車に進行許可を与えるものであったから長い間下がったままになるのは当然であった)。普通の交通信号機などは村中さがしても隣の町にいっても、ひとつもなかったのである。また、「バスの中でおばあさんにせきをゆずった」というのもあった。こみあったバスなどには乗ったことがなかったから、「咳をして風邪をうつした」と勘違いして×をつけたものだ。
結婚式

結婚式は自宅で行われた。親戚の子供にきてもらって「お酌」をさせる。その子供は控えから出て行っては三三九度の杯などのお酒をついでくるのが役割。そういう儀式が(子供心には)延々と続いた。花嫁はタクシーで移動したが、タクシーなどを使うのは結婚式以外にはなかった。花嫁の持参する荷物はトラックで運ばれたが、狭い道で対向車にであった場合でも決して「戻る」ということはしない。荷物は親戚や近所の人に見てもらうことになっていて、品定めが行われていた。
電話

地区の40戸に一台の電話があった。電話がかかってくるとその家の人が自転車で呼びに来てくれた。呼び出し賃は一回10円であったが、めったなことでは電話は使われなかった。電話は自動化されておらず、ハンドルを回して交換手を呼び出し相手の番号を告げる方式で市内通話は無料であった。
家の光

農家向けの月刊誌。生活の工夫を紹介する投稿のページなどもあった。子供向けの「こども家の光」もあった。
屋号

地区の中には屋号のある家があった。おけや、かごや、かじや、あぶらや、パンやなど。それらしい商品を扱っていたわけではないが、なぜかそう呼ばれていた。以前にそういう副業をやっていたことがあってその時のなごりであったらしい。ちなみに筆者の家でもまんじゅうをつくって売っていたことがあるとのことである。
観音講

月に一回観音講というものがあった。これは地区の観音堂にお年寄りが集まって御詠歌をあげたあと食事をしながら世間話に興ずるというものであった。この当番にあたると、その家の子供は地区を回ってお年よりのいる家に触れて回らねばならなかった。「おーばちゃーん、あした観音講させてもらいまっさかい」というのがその口上であった。観音講が終わるころには子供はその家の老人を迎えに行くことになっていた。
伊勢講

伊勢講というのもあった。これは一家の主人が出席していたように思う。お椀が二つ上下に入る箱を下げて祖父が帰ってきた。中身はあまり覚えていないが、煮物が中心であったと思う。こういう会に行くとご飯や汁物は食べるが、ご馳走は自宅にもって帰るのが習慣であった。いまでも法事などをすると仕出し屋から食事を取っても、そのほかに料理を作ってそれを持って帰っていただくのが普通である。
わら打ち機

地区で共有していた機械の中にはわら打ち機というものがあった。稲わらを使って縄をなったり俵を作ったりコモを編んだりする時には、このわら打ち機でわらをたたいて柔らかくする。直径40センチくらいの大きな杵のようなものが弾性のある長さ3メートルくらいの板の先についていて、それをわらのうえに振り下ろす電動の機械であった。草履を作るなど少量の時には機械を使わずに「てんころ」というものでわらを打ったものであり、子供もよく動員された。地区ではそのほかにモミから玄米を取り出す「うすすり機」や、それを駆動する発動機、米を計る「とます(一斗枡)」、米俵の重さを量る大型のさおばかり、葬式の時に僧侶が座る椅子なども持っていた。一方自宅で持っていたものとしては精米機、製粉機、脱穀機、縄ない機などがあった。
尺貫法

学校ではメートル法を教えていたが日常生活はすべて尺貫法であった。学校では月に一回MGLという行事を行ってメートル法の普及に努めていた。MGLというのはメートル、グラム、リットルの略で適当なものを3つ決めてそれの長さ、重さ、体積を生徒に推定させ最も近かった生徒を表彰する行事である。のちに尺貫法は法律で使用が禁止されるようになる。
にわとり

農家はニワトリを数羽飼っているのが普通だった。鶏小屋というのがあって、その中で飼っていたが、夜はイタチなどに襲われるのを避けるために木箱に追い込んで屋内にしまいこむことにしていた。これは子供の仕事であった。春にひよこを買ってきて育てるのだが、いっしょに育ったニワトリ同士でないと喧嘩(いじめ)をするので、前年のニワトリと別にするために鶏小屋は二階建てになっていた。ニワトリは少し大きいえさをもらうとそれをくわえて隅っこに持って行って食べる。水を飲むときに口に含んでから上を向いてのどに流し込むのもおもしろい。

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