50年代農村の四季

このページは私が少年時代を過ごした50年代の農村の四季を紹介する。当時は高度成長が始まる前で、生活習慣の中には江戸時代からそのまま続いているのではと思われるものも少なからずあった。子供は遊んでいたが、当時の大人は一年中何か仕事をしていて、休むことはほとんど無かったように思う。

正月

元旦の朝は家族そろって新年のお祝いをする。米と昆布を巻いたみかんとを乗せた三方をその年の恵方にむけていただいたあと、「九里四方貸しまわす(栗)」、「よろこぶ(昆布)」、「まめなように(大豆)」、「食い分が多いように(くし柿。種1個につき1俵(60キログラム)の米が食い分としてあることになっていた)」、「何やかや(カヤの実)」などといいながら、いろいろなものをいただく。お屠蘇はなく、その朝に汲んだ水でいれたお茶を若水といっていただいた。お雑煮は味噌仕立てで、丸餅と輪切りにした大根が入っていた。縁側の雨戸を早くあけると福が逃げるのでそんなことをしてはいけない。

7時半ころ地区の中央の小山にある神社に村人が集合する。総代さんの挨拶があり、東に向かって「宮城遥拝」などという号令がかかったこともあった。そのあと、小学校に登校。紅白饅頭をもらったこともあったかもしれない。

2日は書き初めをしたあと、親の実家(私の父は婿養子だったので父の実家)に親に連れられて行く。自転車の荷台に四角い竹籠をくくりつけ、その中に座って行った。親が持っていくものは、重箱に詰めた餅や布袋に入れた米であった。餅には南天の葉が添えられていた。相手も農家なのにどうしてこういうものを持っていったのかよくわからない。こういうときのご馳走はいつもすき焼きであった。お年玉はだいたい100円だった。
坊主めくり new

正月は家族が集まってゲームなどをする唯一の機会であった。私の家にはトランプと花札が両方印刷されたカードがあった。トランプのエースには松、2には梅、3には桜、4には藤、という風に印刷されていて12種類の花が各月の花であることがわかるようになっていた(ジャックに雨が印刷されて蛙が出てくるのは季節で説明できず、頭が混乱した)。ゲームは花合わせ、神経衰弱、七並べ、鬼抜き(ばば抜き)、51など。小倉百人一首のカルタもあり、大人たちは節をつけて歌を読んでカルタ取りをしていたが、時には坊主めくりをして遊んでくれた。
おせち料理

アメリカに単身赴任していたときに、新潟県出身の人にお正月に招かれた。「たこも手に入りましたから」と言われたときには何のことかわからなかったが、東日本では正月にたこを食べるのだとわかった。私の育ったあたりではおせち料理には次のようなものが入っていた。

かずのこ、かまぼこ、ごまめ、ぼうだら、栗きんとん、黒豆、昆布巻き、ごぼうとにんじんの煮物、こんにゃく、さといも、焼き豆腐
とんど

15日(当時は成人の日であった)の朝には正月のお飾りを焼く。十字路の真ん中に正月飾りを積み上げて火をつける。道路は舗装されていなかったし、自動車などはこなかったから火を燃やしてもなんの問題もなかった。燃え上がる炎の中に書き初めをさし入れて高く舞い上がれば字が上手になるといわれた。とんどの火で鏡餅を焼いて食べると病気にならない。当時は今のような形の成人式はなかったと思う。
こよみ

どこからか「こよみ」という小冊子をもらってきた。旧暦や六曜のほか、「今日は午の日だから餅をついてはいけない」などというように十二支がわかるので重宝していた。生まれ年による性格占いもあり、子年生まれのものは「苦労してこつこつとためたお金を長じて色に失う」と書かれていた。「色に失う」のところがよく分からなくて大人にきいたら、大人でも意味がよく分からないようだった(笑って教えてくれなかった)。
旧正月

旧暦はまだ年中行事の中には残っていて、旧正月も餅を付いてお祝いをした。餅は粟餅、黍餅、あられ餅、よもぎ団子などいろいろな種類があった。乾燥させてかきもちにもした。立春は「神さん正月」とよんでいた。節分にすしを食べる習慣やバレンタインデーはなかった。
医者

かぜをひくと、登校前に医者につれていかれた。医者は近くにはなく川を渡って行くのだが、その川は川幅が50メートルくらいあり、10メートル以上の高さの板橋がかかっていて、その幅は40センチメートルくらいしかなかった。祖父はその手前で自転車をおりその橋を自転車を押しながら渡った。私も乗せてもらっていた自転車からおりて歩いて渡った。風邪薬は水薬であることが多かったが、甘いので薬をもらうのが楽しみだった。いま、ドクターペッパーを飲むたびにその味を思い出す。
雪の朝

雪国ではなかったので雪が降ると子供たちは大喜び。雪合戦、雪だるまのほか、雪を30センチくらいの高さに積み上げて富士山のような形にして、その斜面に立って足を滑らせて遊んだ。かごを持ち出して、麦粒などを雪の上に置きスズメがえさを食べにきたら生け捕りにする仕掛けを作ったが、スズメは一度もかからなかった。
足袋 new

足にはコハゼのついた足袋をはいていた。後には「足袋ソックス」というものが出て、足袋のように分かれたつま先の厚手のソックスを履くようになった。
カイロ new

いまではカイロといえば使い捨てタイプばかりだが、当時は老人たちが外出する時には桐灰懐炉とか白金懐炉とかが使われていた(いずれも商品名だったのではないだろうか)。桐灰懐炉は木炭の粉だったのだろうか、薄い和紙で作られた筒(直径2cm、長さ15cm程度)のなかに粉末を固めたような燃料が入っていたと記憶する。これに火をつけて断熱材の入った容器に入れておくと端からだんだんに燃えていくので何時間も温かい。それに対して白金懐炉の方は液体燃料であり、クロムメッキのような色の平たい金属性の容器の蓋を開けると、そこに灯心がある。ここに液体燃料が染み出してきて燃えるのだが、その部分には細い金属のコイルが巻いてあった。もちろん炎をあげて燃えては困るので、このコイルが何か触媒のような作用をして緩やかな燃焼をしたのではないだろうか。
学芸会

小学校では2月に学芸会があった。劇、合唱、ハーモニカや木琴の合奏などで3学期はこの練習に多くの時間が費やされた。家族がおおぜい見にくる一大イベントであった。
ひな祭り

女の子が生まれると親の実家から雛人形が贈られる。私の妹がいただいたものは高さ20センチメートルくらいの内裏雛で、床の間に小さな机を置いてその上に飾った。ひな祭りは月遅れで4月3日であった。当日は地区の子供たちは近くの山に弁当を持って遠足に行くことになっていた。
春の野山

たんぽぽが咲くと笛を作って遊ぶ。スギナの節のところで切り離しておいてから元のようにつなぎ友達にそのつないだ場所を当てさせたり、ハコベの茎をとって二つに折り二人でそれを絡ませて切れるまで引っ張り合ってどちらのハコベが強いかを競ったり、カヤツリグサを二人で裂きあってうまく蚊帳(ひし形)ができるかを試したりする遊びもあきずにやった。しろつめ草(クローバー)やレンゲの花を使って花輪を作るのは主に女の子の遊びであった。

山にはイタドリがでる。毎年おいしいイタドリが出る場所は覚えておいて一人でとりに行く。秘密にしておかないと翌年からは他の人にとられてしまうからである。ワラビを摘みに行ったこともある。学校で飼っているウサギのために草を摘んだこともあった。私の家ではふきのとうや土筆は食べなかった。
小学校

小学校の校舎は木造で、他の小学校で使われていて古くなった建物を移築したものであった。そのためか、補強用の「つっぱり」がいくつも目立つところについていて、生徒は少し引け目を感じることになった。運動場はものすごく広かったが、いま見るとそうでもない。4年生のころにジャングルジムが作られた。
教科書

教科書は無償ではなかったので、兄や姉のある人はおふるを使うことも多かった。その時期になると、前年の教科書が使えるのはどの教科かを書いたプリントが配られた。教科書の内容については、海から遠く離れた小学校なので「潮溜まりの生き物」が観察できなかったのはもちろんだが、「野原にいきましょう」の「野原」がないことにも違和感を持った。野原になりそうなところはすべて耕地になっていたのだ。
鉛筆削り

小学校の低学年のころは親が鎌で鉛筆を削ってくれた。高学年になるとナイフを筆箱に入れておいて自分で削った。このナイフは今も売っているボンナイフと同じ形をしていた。ところが何か事故があったらしくて子供にナイフを持たせない運動がはじまり学校の教室に手回し式の鉛筆削り器が備え付けられることになった。
制服

小学生のころは決まった制服はなかったのであろうか、私の入学式の写真では「慶応服」とよばれたダブルの学生服を着ている。女子は今の幼稚園児の着ているスモックに似た制服であったが、近くの町の中学校はセーラー服であった。通学かばんは小学校の低学年はランドセル、高学年になると硬い布製の肩掛けかばんであった。
遠足

春には遠足があった。行き先は必ず桜の名所であったから花見であったのであろう。お弁当は巻き寿しと決まっていて、竹の皮に包んで持っていった。竹の皮は今ならば優雅であるが、当時は他の家の子が持ってくる折り箱のほうがよく見えたものだ。飲み物はアルミの水筒を持っていって、その蓋でお茶を飲んだ。水筒の蓋には方位を示す磁石がついていた。遠足は秋にもあった。
学習雑誌

4年生のころから「○年の学習」という月刊誌が出た。他の雑誌に比べて漫画が少なくまじめな編集方針であったと思う。これはなぜか書店では販売されず学校で注文を受けて配られた。
肝油

学校で有料で配られたものに「肝油ドロップ」があった。ゼリー状のだいだい色の「肝油」が白い砂糖で覆われた直径1cmくらいの平たい粒で一日に一粒か二粒ずつ先生から受け取って食べた。
そろばん

5年生くらいになると珠算の時間もあり、教室には大きなそろばんが置かれていた。ラジオではそろばん教室もあって「ご破算で願いましては、○円なーり」「ご名算」などと先生が名調子で放送していた。学校が終わってからそろばん塾に行く子供もいた。なお、当時は掛け算の九九は3年生の一学期に習うことになっていた。
子供の日

子供の日には地区の公民館(公会堂と呼んでいた)に子供が集まって、お母さん方に作ってもらった混ぜご飯をいただいた。菖蒲湯の習慣はなかった。また、こいのぼりをあげるのもこの地方の習慣ではなかったと思う。
麦畑

麦が大きくなると麦笛を作って遊ぶ。麦畑にはひばりが巣をしている。ジャガイモ掘りもこの季節。
苗代の害虫捕り

田植えの前になると子供たちはグループを組んで村中の苗代に入り害虫捕りをした。1.5メートルくらいの長さの細い竹の棒で苗の上を押さえるようにして動かすと、小さな蛾が見つかる。これをかたっぱしから捕らえて小さなガラスビンに入れるのである。
田植え

苗代で大きく育った苗を早朝からとって(苗とり)、苗籠に入れて田んぼに運ぶ。田は前日までにしろかきを済ませておき、田植えの目印にするための棕櫚縄をきちんと定規で測って張る。田の中に苗の束を投げ込んでおいて田植えをはじめる。私の育った地方では縄の間を後退りをしながら植えることになっていたが、地方によっては前進しながら植えるところもあるし、四角形の枠を転がしながら正確に植えていくところもあるようだ。縄を張ったりして正確に植える目的は、稲の株の間隔を一定にして日当たりと風通しを良くし収穫を最大にするためである。子供は用済みの縄を巻き取ったりする。
農繁期

田植え時と稲刈りの時にはそれぞれ1,2週間くらい学校は午前中のみとなった。児童生徒は学校から早く帰って親を手伝えということになっていた。今にして思えば、先生方も農作業をしておられたのであろう。私の家は貧乏であったが2人の叔母もいて労働力はあったので私はほんの手伝いしかしなかったが、友人の中にはしっかりと手伝っている子供もあった。
かいこ

地区には養蚕をしている家があった。かいこの幼虫を2、3匹もらってきて、みちばたに生えている桑の木の葉をとってきて紙箱の中で育てた。繭を作る前にかいこが白く半透明になっていくのがなんとなく気味が悪かった。大きい桑の木になる桑の実はじつにおいしかったが食べると舌が紫色になった。
置き傘

小学校では学校に雨傘を置いておくことになっていて、学校の斡旋で傘を購入した。唐傘(竹の骨に油紙を張ったもの)であった。
修学旅行

小学校では4年生は阪神間。汽車で2時間かけて大阪駅に行き、市電で大阪港に行ってそこから神戸まで船に乗る。5年生は天橋立で臨海学校。6年生は奈良・伊勢志摩。伊勢のお土産は今なら「赤ふく」が定番のようだが、当時は生姜板(しょうがいた:砂糖に着色して生姜の味をつけネクタイ型の薄い板状に固めたもの)であった。中学1年は京都、2年は若狭湾の高浜で臨海学校、3年は箱根・鎌倉・東京。東京に行く時は修学旅行用の電車「きぼう」号で小田原まで行った。このころは旅行に行く時には米を持参しなければならなかった。
七夕

七夕も月遅れで行われた。8月7日の朝、いろとりどりの短冊に「天の川」「七夕」「ひこぼし」などと何枚も書き、古い和紙で作った「こより」で2メートルくらいの竹に結びつける。「ずいきも(サトイモ)」の葉にたまった露を集めて墨をすると字がうまくなるといわれたが、私に関しては効果はなかった。そのほか、ほおずきやいろがみを切って作った飾りも飾ったと記憶する。ご馳走は「かぼちゃのいとこ煮」であった。飾りをつけた竹は翌朝川に流した。
夕涼み

風呂上りなどには「しょうぎ」を持ち出して夕涼みをした。真っ暗な空には天の川がよこたわり、北斗七星がはっきりと見えた。流れ星も必ずといってよいほど見られた。
ハエ取り紙

夏になるとハエが増えてくる。これを取るためにハエ取り紙というものがあった。2枚の丈夫な紙が貼り合わせてあるのをはがすとその面が黄色い粘着面になっている。それを食卓の上などにおいておくわけだ。ハエ取り紙の欠点はときどき人間がくっつくことである。粘着性の紙のリボンを天井から吊り下げるハエ取りリボンというものもあった。他には、ガラス製のハエ取り器もあった。えさに止まったハエが飛びあがるとガラスの容器の中に閉じ込められるようになっている。入ってきたところはあいているわけだがハエは真下に降りることができないとみえて逃げ出すことができない。もちろん古典的なハエたたきも活躍した。
へび

ツバメが巣を作ると雛が蛇にとられないかと心配したものだ。天井の梁にある釘などを取りはらって蛇が伝ってこられないようにするのだが、蛇も生きるためには食べねばならないから何とかしてツバメの巣に迫ろうとする。天井にあるツバメの巣に向かって行くには少し離れたこの柱を登ればよいなどということを考えられるのは蛇というのはかなり賢い動物なのではないかと思われる。蛙を捕まえた蛇を棒でたたいて蛙を救おうとしたことが何度もある。
かぼちゃ

自宅の庭では、かぼちゃを栽培していた。夏の朝には直径10センチ程度の黄色い花が咲く。雄花をつんで、それを雌花のめしべにふれさせて受粉させた。これは必要だったのではなく遊びであったと理解している。
アイスキャンデー

夏の昼下がりにはアイスキャンデー売りの人が自転車についたラッパ(ゴム製の球を押すと音が出る)を鳴らしながらやってきた。荷台にアイスキャンデーをいれた青い箱をつんでいて、一本5円であった。
すいか

昼寝起きにはスイカを食べることが多かった。「あたったらいかんから」ということで塩をつけて食べた。「まっか」と呼んでいたマクワウリもあった。
魚とり

学校から帰るとほぼ毎日近所の用水路で魚とりをした。ふな、もろこ、ざりがに、どじょう、「どすん」など。穫った魚は庭の小さな池に放したり、ニワトリのえさにしたりした。水が少ないときには用水路を板切れなどで仕切って水を全部かえ出す「かえどり」をした。シジミを穫ったこともある。
布団の手入れ

夏になると布団の手入れ(いったんほどいて洗濯をしてから縫い合わせる)をする。子供たちは夏休みで、退屈をすると手入れ途中の布団の上に転がって邪魔をした。
ザリガニ釣り

アメリカザリガニ(「えびがに」といった)を釣るのは大人たちにも歓迎される遊びであった。ザリガニは田んぼのあぜに穴をあけるという悪者であるうえに、とってきたザリガニがニワトリのえさになるからである。まず、トノサマガエルを見つけて短い棒でたたき気絶させる。つぎに踏みつけて肉を露出させ糸で脚を縛る。これを水の中に入れるとザリガニが食いつくので釣り上げるわけである。
セミとり

セミをとるためにはクモの巣を使う。細い竹を輪にして竹ざおの先にさしこみ、これにクモの巣を巻きつける。これをセミに近づければ飛び立ったセミがくっついて簡単にとることができた。少年雑誌に出ている虫捕り網にあこがれたが、なんのこれでも十分なのであった。とれたセミはニイニイゼミ、アブラゼミが中心でミンミンゼミ、ヒグラシやツクツクボウシは声は聞こえたがなかなか姿を見つけることができずとれなかった。年の離れていない叔母がいて、セミは暗い地中生活が長いのに地上での寿命は短く、捕まえてはかわいそうというのですぐに放してやらなければならなかった。
源氏と平家

クワガタムシもいた。大きなはさみを持ったものを「げんじ」、小さな(3ミリくらい)はさみのものを「へいけ」と呼んだ。へいけに挟まれるととても痛い。カブトムシも家の後ろにあった樫の木にやってきた。夜になると蛍光灯に向かってコガネムシが飛びこんできて、食事をしている上でぶんぶんと飛びまわった。網戸などはついていなかった。
蚊帳

家の周りの排水ダメにはぼうふらがうようよいた。いま、家の中に1匹でも蚊がいると血を吸われて大騒ぎだが、当時はあまり気にしていなかったのだろうか、記憶がない。寝る時には蚊帳を吊って寝た。
映画会

夏の夜などには地区の公民館や小学校で映画が催された。映画は水戸黄門などの時代劇が多かった。よくフィルムが切れたし、映写機が1台しかないのでフィルム交換の時にもいったん明るくなった。映画のある日は特別遅くまで起きていたが、それでも10時くらいであったと思う。
お盆

8月13日から14日はお盆で先祖の霊が家に帰ってくる。13日にお墓参りをしてお迎えに行く。さらに暗くなってくると、たいまつに火をつけ迎え火とする。仏壇の前に祭壇を設けござを敷き、位牌を仏壇から出してその上に祭る。そうめん、おはぎ、まぜごはん、「ぼんこぶ」という刻み昆布とともに煮た夏の野菜(さつまいも、さといも、なす、ごぼうなど)など、例年のご馳走を順次供える。夜には家族全員で西国三十三ヶ所の「御詠歌」をあげる。御詠歌は独特の節回しであるうえに、歌詞の区切りの位置によって節が違うので覚えるのは難しい。途中で甘茶が出るのが楽しみだった。14日の夜に仏様を川まで送っていく(お供え物を川に流す)。お盆の期間中は殺生をしてはいけないので、魚とりやセミとりは禁じられた。
台風

台風が来ると洪水が起こった。私の家の田は低いところにあったので村で一番被害を受けやすかった。私の家は高台にあったので浸水することはなかったが、何軒かの家は床上浸水となった。洪水は毎年のように起こったのでどうしてそんなところに家を建てていたのか今も不思議である。台風が過ぎると子供たちは(親たちも)魚とりの網を持って用水路に向かった。ふだんとれない大きな魚がとれたからである。
運動会

50メートル競争やリレー、綱引き、玉入れ、玉転がしなどの種目のほかに盆踊りもあった。競走に出るときには速く走れるようにわらぞうりを履いた。観客席は地区ごとに決められていて親が自宅から持ってきた「むしろ」を敷いていた。昼ご飯は観客席の親のところで食べることになっていて、お弁当は巻き寿しであったと思う。観客席の周りにはかき氷(薄い木の板でできた舟形の容器に盛っていた)や果物を売る屋台が並んでいた。
イナゴとり

木綿の25cm角くらいの袋に15cmくらいの竹筒をつけた物を持って小学校を出発する。学校の回りは水田であったのであぜ道を歩けばイナゴがいくらでも取れた。それを竹筒から袋の中に押し込んでいく。学校に戻ると直径2メートルくらいある大きななべに湯がたぎっていてそのなかに袋の中身を入れるとイナゴが茹で上がるのであった。このイナゴは私たちは食べることはなかったが、イナゴを食べる地方に売られたのであろう。
蒸し芋

学校から帰ると蒸し芋(ふかしいも)が置いてあった。私はこれがあまり好きではなく、おやつとは認めていなかった。柿をとって食べるのは好きだったが、つるし柿は好きではなかった。おやつをねだると、「つるしでも食べーな」といわれたものだ。小麦粉と鶏卵を水でといて鉄板の上で焼いた「やきもち」を作ってもらうのは楽しみだった。
稲刈り

稲が実ると稲刈り。稲刈り専用の鎌は刃が少し鋸のようになっている。腰に藁束をくくりつけておいて稲を刈るとその藁を2、3本ぬいてくくる。さらにそのくくったものを集めてそく(束)にする。それを自宅のそばに持ち帰って「いなき」に架ける。荷車を押したり、いなきにかける稲を竹ざおでつき出すのは子供の仕事だ。

何日かして乾燥した稲は昼のうちに取り込んでおいて夜なべに脱穀する。脱穀機はモータで駆動されていたが、種籾を取るためには、籾を傷つけないために電動脱穀機を使わず足踏みのものを使ったり教科書に江戸時代の新技術としてでてくる「千刃こき」を使ったりしていた。脱穀したもみは天気の良い日に庭に敷いた筵に広げてさらに乾燥させる。学校から帰る時刻はちょうどこれを取り入れる時刻なので、筵の下に敷いたコモを巻くのを手伝う。

次はいよいよ籾摺りとなるが、この機械は共同で所有しているものである。庭に機械を据えて発動機をかけ、モミを入れると玄米が出てくる。私は機械が好きだったのでこの光景を図画に書いた。
秋祭り

秋には村祭りが地区ごとに順次行われる。その日は学校は早引けすることが認められていた。学校も地域の一員であったわけだ。祭りが近づくと地区内の道路に紺地に白文字を染め抜いた10メートル以上あるのぼりが立ち、お祭り気分が盛り上がってくる。当日は、私の地区では公民館に男子小学生が集合し、神社の宝物である獅子舞いの獅子を担いでそのすぐ近くの小山の上にある神社に向かって登っていく。そのさい「あいやいよー」(エイエイオウ?)という掛け声をかけるのだがこれがなんとなく恥ずかしかった。神社の近くでは小学6年生が那須与一に扮して歩きながら弓で2メートルくらい離れた的を射る。そのあとは餅撒き。別の地区では神輿なども出ていたが、私の地区は素朴なものであった。親の実家の祭りにも行ったことがある。その家のすぐ裏が「まったけやま」でマツタケを取るのに連れていってもらったこともある。

祭りはこの時だけではなく、「天神さんのお祭り」など年に何回かあった。農産物を供えて、あとでくじ引きで分け合う祭りもあった。きんいろに光るスコップなども景品の中にあり、一度それを引き当てたいと思ったものだが、あたるのはいつもカボチャやサトイモ、枝豆などであった。
機織り

冬にははたを織る人が多かった。できた布は「もんぺ」や布団などに使われた。家には機織り機のほか、綿繰り機、糸車などの道具があった。祖母はかすりを織るために、2メートル以上ある2本の棒(それぞれ何本もの小さな枝がついていた)を立てて、その間に染めた糸を束にして引きまわしていたが、どのようにしたらあの模様を出すのかを聞くことはとうとうできなかった。
毛糸編み機

毛糸を編む機械もあって親がセータを編んでくれた。毛糸をボール状に巻くときに毛糸の束を両手にかけて持っておくのが子供の仕事であった。両手がふさがるためにいたずらもできず、たいそう退屈であった。
火の用心

冬の夕方になると子供は誘い合わせて「火の用心」にまわることになっていた。「ひのーようじーん」「ごくろうさん」「ありがーとう」。ちなみにこの「ありがとう」は子供たちが言うのである。時には隣の地区の子供たちの声も聞こえた。
味噌汁給食

毎年、冬になると小学校では味噌汁給食が始まった(私たちのころには学校給食はなく弁当持参であった)。お母さん方が当番が味噌汁を作ってくれるのをバケツで教室に持ってきて、各自持参のおわんに入れてもらってあたたかい味噌汁をいただいたものである。自宅で作っていた味噌と少し違う味がしておいしかったことを今も懐かしく思い出す。春に近くなると酒粕が手に入るので粕汁になっていた。
薪ストーブ

教室の暖房はだるまストーブといわれる薪ストーブであった。当番は自宅からたきつけ用の新聞紙と柴を持って早く学校に行き、ストーブに火をつける。薪は学校の中に積んであって各クラスでとりに行くことになっていた。ストーブの近くに席があると暑くて困ったものである。ストーブの周りには弁当を温めるための棚が置かれており、新聞紙に包んだ弁当を入れておくと昼にはほかほかの弁当が食べられた。
出稼ぎ

冬は仕事がないので父は日本酒を作る季節労働者として出稼ぎに行った。出稼ぎ先は長野県であったり、岡山県や淡路島であったりしたが、経験をつむと西宮など近いところに行くようになった。春先になると帰ってきたが、秋には農作業で日焼けしていたのが、屋内の仕事であるためにずいぶん色が白くなって帰ってきたものである。おみやげに本を買ってきてもらうのが楽しみであった。荷物の柳ごおりは鉄道のチッキ(手荷物=現在飛行機に乗る場合には一定の重量まで無料で手荷物を預かってくれるが、当時は鉄道の乗車券を買うとその区間は安い料金で荷物が送れた)で送っていた。
たきび

冬の朝などには、学校に行くために友達の家にさそいに行くと稲わらを燃やして焚き火をしてくれる家があった。小石を焚き火で温めてポケットに入れるというようなこともした。靴の中に真っ赤なトウガラシを入れておくと足先が冷えない。
こたつ

冬にはやぐらごたつを使った。こたつには調理のかまどや風呂焚きでできた「おき」をいれ、消し炭をついで火がなくならないようにした。火力の調節はおきに灰をかぶせることで行った。夜はひとつのこたつにみんなの足を向け十字のように布団を敷いて寝た。陶器製のあんかもあった。中学生になるころには豆炭あんかも使われるようになった。
年末

お正月の餅つきは30日ころに行った。鏡餅からはじめて、普通の丸餅、あずき餅、粟餅、「あられ餅」という玄米入りの餅、団子などを次々に搗く。子供は餅を丸めるのとあずき餅を食べるのが仕事。

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